18’応用ドラマ教育論履修者の最終レポートより

2018年度に応用ドラマ教育論を選択した学生が15回の授業を受けたのち最終レポートを出してくれました

 

応用ドラマの可能性について

「教育」という言葉を自分なりに再定義して論じてください

 

という課題に対して出されたレポートは本当にそれぞれで

教育についての定義も
応用ドラマの可能性も
どれ一つ取っても同じものはありませんでした
その中の数人のほんの一部を許可をもらって抜粋させてもらいました
ありがとう!
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

「今回「ドラマ教育」を学んで、今まで所謂「主体的・対話的で深い学び」と呼ばれ、

教わってきたものは、文字通り「対話」で終止していることに気づかされた。

「対話」以上の活動を行うことによって、授業者(教師)は生徒により実感をもって

授業内容を理解させることができると考える。

今後は、実際の授業としての形にならずとも「ドラマ教育」を取り入れた授業形態を考えていけたら、

学校授業の可能性が広がるのではないかと思う」Hさん

 

 

「私の考える応用ドラマ教育の一番の可能性は、

それまでほとんどといっていいほど無視されてきた、感情や感覚を重要視する点である。

これまで、内面、心情に関して学校教育では「特別の教科道徳」で取り扱われてきた 。

道徳では読み物が提示され、著者や登場人物の心情について問われるというスタンスが一般的である。

しかし、「どう思うか」あるいは「あなたならどうするか」という問いかけはあっても、

それは頭の中で想像することをお互いに共有しあうに過ぎなかった。

また、身近な事例が取り上げられる訳でもなく、見ず知らずの登場人物や作者の心情を

ただ読むという作業だけを通して考えさせられるのである。

文章から心情を読み取ろうとするのであれば国語の時間に行えば十分な作業である。

その点ドラマを取り入れて授業を行えば、見ず知らずの登場人物になりきることができるし、

身近な事例を再現することによって、より鮮明な感覚を得ることができるのである。

心情や感性、価値観などでの学びが求められる場面こそ、

それを敏感に感じることができるドラマの導入が非常に有効であると考えられる。

また、言語活動の重要性が叫ばれる昨今 、英語の授業における会話の練習などでも、

ドラマ形式の授業は有効である。なぜなら、言語は実際に使用する場面を想定して、

ノンバーバールな要素を含めた上で練習をしたほうがより良い定着が見込まれるからである。

このように、応用ドラマ教育は視覚聴覚などあらゆる感覚器官をフル活用し、

さらに身振りや表情、話のトーンなどあらゆる情報を媒介にして生徒の学びを深めようとしている点で

非常に重要な試みである。」Yさん

 

 

「他の授業と大きく異なることは、授業を終えてから気付くことや学ぶことがとても多かったということである。

レポートの課題をやっている時は特に授業を振り返る機会だったが、

授業の後に残るモヤモヤ感というものがとても印象的であった。

これは、授業の主体が教師ではなく、生徒の側であるということが理由なのではないかと考える。

主体的だからこそ、よく考えるし、モヤモヤも残るのだと思う。

従属的な場合にも、モヤモヤというものが残るかもしれない。

このモヤモヤというものは、自分で考えていないため、「ただわからないだけ」という状態のように感じる。

しかし、主体的な場合のモヤモヤには、従属的な場合とは一段階レベルの違う「わからない」があるのだと思う。

「ただわからないだけ」なのではなく、主体的であるためにわかろうという前向きな姿勢が感じられるのだ。

このモヤモヤ感をすごく大事にできた授業が応用ドラマであった。とても新鮮だった。

この新鮮さというものも、応用ドラマの可能性なのではないのだろうか。」Tさん

 

 

「しかし、道徳科や各教科における思考力や表現力を問う時、

教員に求められるのは児童生徒の表現を引き出すためのファシリテートを行う能力である。

応用ドラマの可能性とも重なるが、本授業で重要になったアウトプットする、

表現することと、それを受けてファシリテーターがどう反応するか、応答するかという部分は、

教員のファシリテートする部分と重なる。

なぜなら私たちは多くの場面で、他者と影響し合いながらアウトプットしているためである。

これは、学校教育現場にとどまらず、“場を司る”必要に迫られる場面は多々あるのではないかと考えられる。

教壇に立つのはもちろんのことプレゼンテーションや商談、プライベートな場面においても、

子育てや家族との大切な会議の時といった場面では、自分に対して注目してもらうこと、

わかりやすく見通しを伝えること、なにが狙いなのかを明確にすること、

あるいは言葉にしなくとも「隠れたカリキュラム」のように、意図を

アクションや声の大きさなどで意思表示することが

“場を司る”ことは必要になる場面では重要になってくるのではないだろうか。

声の掛け方やアクションの大きさ、声の大きさやまた、自分がどういった背格好で、

表情で、あるいは相手とどのような位置関係にいるかということに意識的になることで、

状況をより客観的に見ることにつながるとも考えられる。

応用ドラマの可能性は、相手とより心地よく過ごすためのヒントが多く隠されていたように感じる。

もちろんテクニックの部分や、経験として得た実感や多くの反省点は、

教員を目指すにあたって貴重な経験となった。

しかし、それ以上に、今、自分と、他者との関係性を円滑に保っていくため、

ひいては誰もが生きやすい社会を作っていくための、小さな鍵のように感じられたのである。」Aさん

 

 

「教育には、学ぶというワードが重要になってくると考える。

教えられるというのは、知識を与えてもらうという感覚であるが、

学ぶというのは、自ら体験して実践できるようになるというようなことではないかという違いがあると考える。

そのことを踏まえて、教育とは、一方的に教えられることで知識を蓄えていくことではなく、

体験し、感じることで何かに活かすことができるようになることを指していると考える。

私自身も応用ドラマ論を受講して初めて、このように様々なことを感じられることから、

学んでいると実感できたため、このような授業が今までにも必要だったと感じた。

大学ではなく、もう少し早くからやっておきたい授業だと思った。」Mさん

 

 

「ドラマ教育を受けて私は他人の価値観の多様性を知るとともに自らの価値観を再発見できた。

これは価値観を押し付けられる従来の教育ではなく、

自らの価値観を発信することを求めるドラマ教育であるがゆえに獲得できた産物である。

また、ドラマ論に触れることで私の教育観は「教える、教えられる」立場から、

生徒が主体的に学ぶことを優先に教師はその学びを手助けする「学び、支える」立場へと変化していった。

このようにドラマ教育は、新たな自分を発見することにもつながる。

そこで私はドラマ教育の可能性として、キャリア教育としてのドラマ教育を推奨する。

キャリア教育とは、一般的に「児童生徒一人一人のキャリア発達を支援し、

それぞれにふさわしいキャリア形成していくために必要な意欲・態度や能力を育てる教育」と考えられており、

「生きる力」の育成を基本方針として行っている。

この「生きる力」の育成にドラマ教育を用いることが出来るのではないか。

「生きる力」とは人によって様々な考えがあると思うが、

私が考える「生きる力」とは、自分の人生を自分で決めていく力である。

その力を獲得するためには、自分がどのような人間なのかを知る必要があり、

自分自身に向き合わなければならない。

そして自らを知ったうえで自らの最善であると考える道を選択することが「生きる力」ではないか。

今まで行ってきた職場体験学習などのキャリア教育ではなく、

自らを知り、自らと向き合う一環としてドラマ教育を用いるべきであると主張を行い本論の結びとする。」Kさん

 

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教育関係者からしたら当たり前のことが書かれているかもしれませんが
彼らの言葉の中から発見や驚きがキラキラしてみえて
私は読んでいて本当に楽しかったです!

 



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